レギュラー番組/菅原明子の「エッジトーク」

●ゲストー医師 武永賢さん
≪2月3日(水)・2月10日(水)23:00~23:30・ラジオ日本「菅原明子の『エッジトーク』でどうぞ!≫


今回、2週にわたってお送りするゲストは、医師の武永賢さん。武永さんの著書『日本人が知らない幸福』を中心にお話を伺います。

ベトナムでは、「サイゴンに攻め入られたら終わり」といわれていたが、1975年4月30日に南ベトナム首都・サイゴン市(現・ホーチミン)が陥落後、生活が180度変わったことで戦争を実感。その当時、武永さんは9才だった。

ベトナム内戦は30年で、7割の人が旧政権と関わっていた。父親が政治犯として捕まる可能性もあった。武永さんは、兄弟9人の8番目。お母さんはいかにもな"アジアのお母さん"だそうです。

「母は家族を守らなければという意志を持っていた。母には頭が上がらない。ベトナム人は女性が頭がよく、たくましい。とにかく芯が強い。だけど、男はショボイんですよ(笑)」(武永)

1978年から1981年まで、13歳から16歳までの間、家族と一緒に7回ほどボートピープルとしてベトナムから亡命しようとしたが失敗。1982年に正式なルートで日本に入国。

「ボートピープル中、命を落とす危険は常にあった。金品を奪われて殺される。タイに売られるなど。脱出計画の7回。すべて今でも詳細を覚えてる。」(武永)

■「武永さんが医師になったきっかけ」

「日本に定住して医師になるのは非常に大変だったと思いますが、日本という国は閉鎖的ではなかったですか?」(菅原)

「わたしは非常に恵まれていましたし、みんな非常に親切でした。『難民を助ける会』が主催した合宿に参加した時に、その会の幹事を務めていた吹浦忠正先生から難民医学生の話を聞いて、私にも医師になるチャンスがあるんじゃないかと思った。高校二年の夏。やってみてだめだったらやめようという思いで、高校卒業後、1年間浪人して杏林大学医学部に合格できました。」(武永)

「ある団体から合格したら授業料を出すと約束されていたこともあったが、いざ学費を納める段になり、「学費を出せなくなった」と断られてしまった。それまでも、やはり金がないことで挫折した経験は何度もあった。だから、わたしはかなり早く厳しい現実を飲み込めたと思う。学費を出せないと知らされてから、近所の公園で思い切り泣いた。」(『日本人が知らない幸福より』)

「姉の知人のつてで曽野綾子先生と知り合って、曽野綾子さんが産経新聞に働きかけてくれた結果、わたしのことが記事になり、学費が集まったんです。その数日間に起きたことはいまだに現実なのか夢なのかわからない気持ちでいます」(武永)

■「武永さんにとっての日本とベトナム」

「日本の自然、四季はすばらしい。日本の梅雨は、はじめはうっとうしいと思ったが、今は待ち遠しい。」(武永)

「日本の四季は日本人が思う以上に日本人を作ってきたと思います」(菅原)


「日本名にされたのは?ベトナム人としての誇り、日本人としての誇りの葛藤あったでしょ?」(菅原)

「難民は、どこの国の人間でもないんです。私は、ベトナム人でありながら、ベトナム人ではない。日本に住んでいながら日本人でもない。日本を愛し、日本を祖国にしたいと思っていた。ただ、愛国心あるから偉い、愛国心ないからダメとかそういうことはないと思います。」(武永)

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■武永賢(たけながけん)

1965 年ベトナム・サイゴン生まれ。ボートピープルとして亡命を企てるが失敗。1982年に合法難民として日本移住。1988年杏林大学医学部入学、1994年医師国家試験に合格、帰化して日本名を取得。現在、都内のクリニックで院長を務める。著書に『それでも日本人になった理由』。